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「リズと青い鳥」の解釈

今更ながらリズと青い鳥を見ました。そう、見たんです……。


①リズと青い鳥ってなに?
②どうして胸を打つの?
③ラストシーンまでのだいたいのお話と解釈について
④ラストシーンの解釈について



①リズと青い鳥ってなに?
 「響け!ユーフォニアム」シリーズのスピンオフ作品です。
 先輩からの嫌がらせに耐えきれなくなり、抗議の意も込めて部活を辞めた希美と、希美に誘われて部活に入ったのに、辞めることを告げられずに取り残されるかたちになったみぞれ。なんやかんやあって、部に復帰した希美とみぞれの「それから」を描いた話です。


②どうして胸を打つの?
 ともすれば壊れてしまいそうな関係や、いくつもの偶然が重なって、たまたま交わした友誼のはかなくきらめく様は美しいものだからだと思います……。そのことは、筆者が「響け〜」で執拗に描く「相手に向けた愛情が等量返ってこない」問題(一人しかいない友人に向ける愛情と、百人友人がいる人が一人に向ける愛情は等量じゃないよね問題ともいえる)によって強化され、いつ青春の一幕が、それ自身を破壊するハンマーになってしまうのか、言いようのない緊張感のもと描かれ、目をそらすことを許さず、没入をさそいます。「没入すれば、関係が壊れたり壊されたりするのは、我がことのように辛い」ですからね。そして、京都アニメーションによって描かれた美しくもままならない世界……。


③ラストシーンまでのだいたいのお話と解釈について
 作中作であり、コンクールで演奏する曲でもある「リズと青い鳥」の大筋は、孤独な少女「リズ」の元にやってきてくれた「青い鳥」を、越冬させるために手放すというもので、希美とみぞれは、自分たちを「リズ」や「青い鳥」に投影しながら、進路問題や二人の関係に向き合っていきます。
 基本的に焦点はみぞれに当てられているので、みぞれがどう思っているのかは分かりやすい……というか、深読みをする必要はないと思います。
 最初みぞれは孤独な自分をリズに重ねて、そんな自分に声をかけてくれた希美を青い鳥だと思っています。「自分なら、青い鳥を手放さない」とひとりごつみぞれを知ってかしらずか、百分の一の愛想をふりまく希美(名言「また今度ね」)に、視聴者は「そういうとこだぞ!」とモヤモヤするわけです。で、ある折、吹奏楽部のコーチに三年生で一人、音大の受験を勧められ、自分の進路を主体的に考えるようになってからは、みぞれの投影先はリズから青い鳥へと変わります。希美という居心地のいい場所から(その希美にめいっぱいの感謝を抱きながら)新しい場所へと飛び出そうとする一連の流れは明確と言っていいと思います。
 翻って希美。彼女は分かりにくい、というか、本心を出さないキャラクターです。それゆえ、描かれていない部分を、視聴者が無意識に自分の経験から補完して、自分に当てはめて解釈してしまうことが多いのでは……と思います。(希美の本心は分かりにくいですが、置かれた状況自体は明確なため)こういう揺らぎを呼び込むというか、簡単にラベリングできないところが名作の風格の気もします。物語を自分に引き寄せ、自分のためのものとして読むのって、いちばん幸せな読み方かもしれませんし。
 希美が最初、自分をどちらに投影していたかというと、リズではないかと思います。自分を慕う部員たちに囲まれていても、先述した「徹底的に本心を見せない」姿からは、周りの人間への見えない壁と、その壁の中に自分を押し込みがちな、希美の姿が見て取れると思います。そしてみぞれは「本当ならその才でもって、どこにでも飛んで行けるはずなのに自分のそばなんかにいる」青い鳥なわけです。みぞれは希美を手放したくなく、希美は冗談めかしながらみぞれの自立を遠ざけるような振る舞いをしている。希美の振る舞いは、シンプルに、才があるのに頓着しないみぞれへの嫉妬ゆえと捉えて良いでしょうが……(それだけと単純化しないで見ようとすると、小さく複雑な感情がいくつも見えてきて面白いのです)。で、お互いがお互いを鳥籠に入れ続けようとする、外から見るとちょっとおかしい役割のズレは、最後まで解消されなかったと思います。それは、みぞれがリズをやめたときに、希美もリズをやめているからです。


④ラストシーンの解釈について
 さて、本作のクライマックスは準備室でのハグ・シーンです。お互いの好きなところを言い合うゲーム(の体)で、みぞれは「希美の笑い声」「話し方」「足音」「全て」が好きだと言い、希美はそれに対して「みぞれのオーボエが好き」とだけ言い、ゲームは終わりを迎えます。
 みぞれは希美の人間的な部分に親愛の情を示したうえで、音楽の道へと飛び立っていこうとします。一方、希美の「みぞれのオーボエが好き」は、みぞれを音楽の道に送り出す言葉であると同時に、自分が音楽でみぞれと張り合うことはもう出来ないという敗着宣言で、かつ、希美が新しくみぞれと関係を結び直すためのきっかけになる言葉だと思います。すでに希美の音楽の才能や実力、熱意については、この場面以前のデュオパート等で(本人の中でも)決着がついているため、「みぞれは希美の音楽については語らない→才能がないことを突きつける」→「希美はみぞれのパーソナリティについては触れない→意趣返し」みたいな解釈は、ちょっと意地が悪いというか、過剰というか、個人的にしたくありません。
 希美は「みぞれのオーボエが好き」と告げることで、二人の間にある隔絶を明らかにします。「あなたは音楽のひとで、わたしはそうじゃない」と。ここで、みぞれは「希美のフルートが好き」と言わなかった。言わなかったが故に、希美は自分を憐れむことなく音楽から旅立て、かつ、みぞれの(天然っぽいですが)誠実さを確認し、「これなら、友人でいられる」と確信し、新しい関係を結びなおそうと思えたのではないでしょうか。だって、みぞれが好きなのはフルートじゃなくて希美ですからね。フルートが好きだと言ったら「嘘」ですから。嘘をついてまで希美と離れまいとするなら、みぞれは青い鳥を閉じ込めるリズのままですし、その嘘にすがったら、希美はみぞれの自立を妨げるリズのままです。
 「青い鳥は別にいつリズのもとに帰ってもいい」というふうなことを希美は言っていましたが、お互いがそういった自由で広がりのある友情を選び取るには、お互いが自分を青い鳥とみなすような(ちょっと身勝手な)認識のレイヤーのズレが必要で、映画の最中では関係の終わりを危惧させるレイヤーのズレが、二人が友人でいられるためのよすがになっているのが見事であり、おもしろいなとただただ思います。
 これはボクの性格に起因する解釈だと思うのですが、希美の「みぞれのオーボエが好き」というのは、みぞれに言ってほしくない「希美のフルートが好き」という言葉を促す、破滅願望に近いテストで、それを天然でスルーされてしまって「ああ、嫌いになれないな」「友達でいられるわ」と思い、かつ、試したことへの申し訳なさと、言ってほしくないことを言わないでくれてたことからの「ありがとう」だと、個人的にはしっくりきます。

 たまたま、友人でいられた二人が、いろいろな偶然やズレによって、たまたま、友人でいつづけられる。それだけのことが、尊くてしかたがない。
 ハッピーエンドだなと思います。男女だろうが、男同士だろうが女同士だろうが「二人」の映画が見たい人は、是非。「二人」って、切ないですよ。

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Tag : アニメ

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