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英仏百年戦争・最初の50年のこと

英仏百年戦争の最初の方の流れを掻い摘んで書きました。
佐藤賢一先生の『英仏百年戦争 (集英社新書)』にかなり助けられてます。サトケンは神。

基本的な流れとしては
①イングランド王家ってこんな流れで出来たよ(つーかあいつらフランス貴族で、イングランドの領地はおまけだよ)
②グダグダしているうちにフランス国内の領地を失ってイギリス人化したよ
③フランス王位継承問題が勃発するよ
④ダルトワくんとエドくんが立ち上がるよ
⑤フランドル上陸
⑥ブルターニュ継承戦争
⑦クレシーの戦い
⑧ポワティエの戦い
⑨民衆の反乱
⑩戦後処理
⑪カスティーリャ遠征
⑫百年戦争前半の終了
という感じです。いい加減に書いたので、章立ての割に簡単に読めると思います。

①プランタジネット朝の成立
アンリ・ドゥ・プランタジュネという男がいます。父の家の領地アンジュー及びフランス北西部と、母の家の領地ノルマンディを共に相続し、一気に超有力諸侯となった男です。ちなみにノルマンディの支配者はオマケでイングランド王にもなれるので(昔ノルマンディー公のロロさんという人が征服した)、彼は「イングランド王ヘンリー2世」として戴冠し、彼が王位につくことが、歴史上の、(彼の家名を訛らせた)「プランタジネット朝」の成立となります。

余談ですが、プランタジネット朝が強大なものとなったのは、別にアンジューの領地とノルマンディの領地を合わせたからではありません。ヘンリー2世はイングランド王になる前に結婚をします。相手はアリエノール・ダキテーヌという、フランス王ルイ7世の妻でした。
ヘンリー2世がノルマン公国の引き継ぎの挨拶に王宮に向かったところ、迎えたのが王妃のアリエノールでした。
ヘンリー「つーわけで、ノルマン領有の件、なるはやでお願いしたいんスけど……激マブ」
アリエ 「!?」
ヘンリー「王妃さま激マブブ。第一印象から決めてたんで、結婚して下さい。オレの王妃になってください的な?イングランドはちっちぇえけどオレ、ビッグになっから」
アリエ 「りょ。バビっと旦那と別れてくるわ」
的なことがありました。なぜ彼女がフランス王妃となったのか、そして、なぜ離婚しても王は文句を言うことが出来なかったのか……それは、彼女のアキテーヌ公家が、フランス南部に超巨大な領地を有していた大豪族だったからです。アンジュー、ノルマンディー、イングランド、アキテーヌ公領。プランタジネット朝は、これらの領地を合わせて始まりました。

②領地広かったんだけどね
 ヘンリー2世は早々に遺言を定め、息子たちにどの領地を相続させるか決めました。その時まだ1歳だった末っ子のジョンは領地を与えてもらえず「ジョン欠地王」などという不名誉なアダ名で呼ばれてしまいます。親父からも「ごめんな領地無し男」と憐れまれたのだからたまらない。成長してから領地がないことをゴネ、ヘンリー2世も一理あると思ったのか、長男の領地を一部削ってジョンに与えようとしました。すると長男がキレて、ヘンリー2世と戦争状態になります。ここで出てきたのがルイ7世。妻ぴっぴをヘンリー2世に奪われたフランス王です。彼は長男ばかりでなく、次男と三男も焚き付けて「ヘンリー2世VS長男・次男・三男」の構図を作り上げます。ヘンリー2世はなんとかこの親子喧嘩を抑えますが、結局、いろいろあって(長男が死んだり、三男が死んだり)ヘンリー2世は次男に敗れ、失意のままこの世を去ります。
さて、ヘンリー2世の次男こそが有名な「イングランド王リチャード1世」通称「獅子心王(ライオンハート)」です。十字軍で先陣を切ってイスラム勢力と戦い、サラディンと烈しい闘いを繰り広げた騎士王です。彼が先のプランタジネット朝の領土をすべて相続することになりましたから、フランス王としては大変です。国内にとんでもなく広い領土を持った戦争の上手い臣下がいることになりますからね。ルイ7世は既に崩御しており、当時の国王はフィリップ2世。彼も彼で「尊厳王」と呼ばれた名君です。最初末っ子のジョンを操ってリチャードと戦わせていたフィリップですが、リチャード1世はアホほど強い。仕方がないのでアキテーヌ領内の有力領主を煽動・根回しし、次々と反乱させます。その反乱を鎮圧する旅の中、リチャードは流れ矢を受けて死亡。とうとうすべての領地が末っ子のジョン欠地王の元に集まります。おめでとう!しかし彼はびっくりするほど暗愚な王でした。

 ジョンはさっそくやらかします。ラ・マルシュ伯の妻に一目惚れしてむりやり妻にしてしまいます。伯はフランス王フィリップ2世に訴え、フィリップ2世はフランス王の名の下、ジョンに領地没収を宣言しました。ジョンは抵抗しましたが、こんな性格ですから人気がなく、領内の貴族は次々とフランス王側につき、ジョンはアキテーヌ領の一部(ガスコーニュ地方)を残し、アンジューも、ノルマンディも、大陸のほとんどの土地を奪われてしまいました。このことからジョンは「失地王」の名でも後世に伝わるようになりました。
 ジョンに残った領地はほとんどイングランドのみ。ここでようやく「イングランドをメーンに活動する王」が生まれるわけです。今まではノルマンディのオマケのイングランド王でしたからね。しかしジョンはやはりジャンであり、フランス人だったので、自分と息子の二世代に渡ってフランスに侵略戦争をしかけています。ですが、彼らからしたら「おれたちの土地を返せ」という正統な要求のつもりだったのかもしれませんね。

 ジョン欠地王の代で唯一残ったフランス本土の領地――南アキテーヌは、「聖王」ルイ9世(フィリップ2世の孫)によって、改めてヘンリー3世(ジョンの息子)に与えられました。フランス王としては、不忠の臣下の土地なので別に奪ってもいいのですが、向こうも大陸最後の領地なので、必死になって抵抗してくる。それならいっそ相手のものと認めてしまえば平和な時代が訪れるのではないか――という考え。さすが聖王。ただ、聖王の次代くらいになると、イングランド王の目の届かないのをいいことに、フランス王がチクチク領土を削ったり、内政干渉したり、占領したり、やっぱり返還したりしていたようで、結局遺恨は残ることとなります。

③フランス王位継承問題
 先ほど出てきたルイ9世は「カペー朝」の王様です。カペー朝とは十世紀のユーグ・カペーという地味な人から始まった王朝で、ルイ9世のときには250周年くらいになっていました。王朝が続く条件はひとつ「王様が必ず次代の王(直系男子)を産むこと」です。王朝が続くことって、そんなにいいことなのでしょうか?いいことなのです――というか直系男子が代々いるということがいいことなのです。直系の男子が生まれないと、領地相続が難解になって争いの元になったり、他家に吸収されてしまったりする可能性が出てきます。つまり、直系男子が生まれ続けたということは、それだけフランス王家が大きくなる上での内部の悩みは少なかったというわけです。
 ですが、十四世紀初頭、国王フィリップ4世の息子たちが、一人も直系男子を残せなかったことでカペー朝は断絶します。(別にユーグ・カペーの血が絶えたわけではないんですけれどね)。次の王はフィリップ4世の弟の子どもです。フィリップ4世の弟は、兄貴が王になり息子を産んだ時点で王にはなれないので、ヴァロワという領地を治めるヴァロワ伯という役職をもらっていました。その子、フィリップ6世からはじまる王朝は「ヴァロワ朝」といいます。

 ですが、フィリップ6世の即位に異を唱える人物が出てきます。それはイングランド王「エドワード3世」です。弱冠十五歳のこの王は、自分の母はフィリップ4世の娘であり、自分こそカペー朝の正当な後継者だと主張しました。疑問が二つ出たかと思うので、一つずつ説明します。「フランス王家とイングランド王家って仲悪くなかったの?なのになんでイングランドに娘嫁がせてるの?」……これは、仲が悪かったから嫁がせたパティーンです。上に書いたアキテーヌ領をめぐるいざこざは何度も起こり、そのたびごとに条約を結んだり、イングランド王が臣下の礼(「フランス王に仕えてますよ」とアピールすること)を取ったりすることで収めてきました。その条約を確かなものにするために、つまり仲直りのしるしとして、エドワード3世の母はイングランドに嫁ぎました。(ちなみにこの母――イザベラは無能な旦那であるエドワード2世をクーデタで廃位させ、息子に王位を譲らせています。その後、旦那は拷問ののち殺してしまいました。その拷問が酷くって、焼け火箸を肛門に何度も差し込むというもの。かわいそう)「この主張ってありなの?」ありです。
 しかし、フィリップ6世はヴァロワ伯時代、フィリップ4世の息子たちの摂政をしていたこともあり、政界でも顔が効き、ヴァロワ伯は父の代から周囲の信望も厚く……エドワード3世の言い分は無視されました。しかも「お前そもそもフランス住んでないじゃん」とまで言われちゃうのだからたまらない。おれがフランスに住めないのはお前らのせいだろ!とこの十五歳の少年は思ったに違いありません。十五歳の少年はもろいものです。

④がんばれエド君
 「お前フランス住んでないじゃん。まるっとイングランド人じゃん」という指摘は、実はそこまで的外れではありませんでした。ジョン欠地王が大陸の領地をほとんど失ったことをきっかけにしてか、ジョンの孫エドワード1世の代からイングランド王家はグレイトブリテン島の統一を目指し始め、フランス本土はあまり見ていなかったからです。エドワード1世の代ではウェールズの征服を完了しています。(ちなみにこのとき、ウェールズの弓兵にさんざん苦しめられたことから、イングランドは弓兵の重要性を学んだようです)
 しかし、エドワード2世がダメだった。本人の能力がアレなところをもってきて、彼が征服しようとしたスコットランドには「解放者」ロバート・ブルースがいました。エドワード2世は彼に「バノックバーンの戦い」で完膚なきまでにやられて、スコットランド支配は遠のきます。(さらにちなみに、この戦いは、騎兵のスピードに弓兵の足がついてこられず連携がとれなかったことが敗因の一つと考えられています。弓兵と連携をとるためには、むしろ騎兵のスピードは足を引っ張るだけなんですね)

 ですがエドワード3世の時代、ロバート・ブルースはハンセン病で死に、跡を継いだのが5歳の息子。この機を逃すまいと、エドワード3世は適当なスコットランド王族(傀儡ですな)を擁立し、スコットランドに侵攻。すぐさま息子は降伏し、さっきの傀儡が王になり「ぼくはイングランド王の家臣になります。スコットランドはイングランドの属国です」と誓わせました。スコットランド編、完結!と言いたいところですが、ここで問題が。5歳の息子がフランス王に保護を求め、亡命したのだからたまらない。前王の息子が生きていると、彼を担いでクーデタに使う人間が出かねませんからね。エドワード3世はめっちゃムカついたことでしょう。腹立ちまぎれに、フランスで逮捕状が出ていた貴族・ダルトワくんをイングランドで引き受けて嫌がらせ返しをしてみました。すると、ダルトワくんは、フィリップ6世にいろいろ嫌な思いをさせられていたらしく、王宮の内情をべらべら話し始めました。
ダルトワ「エドくん、フランス王なれっべ」
エドくん「やりてー気持ちはあっけど、フィリップ君人気じゃん?」
ダルトワ「や、アイツの周りただのパリピばっか」
エドくん「ダルトワくんさすがだわ。王宮のこと知り尽くしてる説」
ダルトワ「ウェーイ。んじゃいっちょやっちゃいますか的な?」
この後、フランス王は何度目かの「アキテーヌ没収」を宣言します。
「フランス王の臣下なら、逆賊を庇うな、罰として領地を差し出せ」ということです。
この宣言をきっかけに、エドワード3世はフランス王家に宣戦布告をします。
エドくん「聞くわきゃねーべ。オレ、フランス王。よきにはからえ」
ダルトワ「ウェーイ」
この難解なフランス語により、英仏百年戦争の火蓋は切られたのでした。

 いくらエドくんがフランス語でイキってみせても(当時もまだ、イングランド王家の公用語は仏語です)イングランドとフランスの差は非常に大きなものでした。イングランドといえば産業革命のイメージですが、それはこの時代から四百年後のこと。当時はまだ農業がメーン。耕作地・耕作人口で比べると、イングランドはフランスに三倍以上の差をつけられていました。ただ、イングランドは一点、フランスより優れていたところがありました。それは支配機構が盤石であったこと。征服王ウィリアムの代でイングランドの支配層を総入れ替えしていたため、イングランドの諸侯はみな、イングランド王に忠実な家臣となっていました。また、王がイングランドを留守にしがちだったため、王がいなくても国政が回るシステムが完備され、とても持続力のある国になっていました。

⑤フランドル上陸
 イングランド側から見て、ドーバー海峡の向こう側に「フランドル伯領」があります。毛織物業で栄えたこの町は、材料の羊毛をほとんどイングランドからの輸入でまかなっていましたが、1336年、エドワード3世はフランドルへの羊毛の輸出を禁止します。商売が立ち行かなくなった市民たちは、なんと支配者であるフランドル伯に反乱を起こします。フランドル伯自身はもちろんフランス王国に忠誠を誓っていましたが、市民はそうでもなかった。自分たちに利益をもたらしてくれる人こそ王である。あと当人も自分が王だと宣言しているから、俺たちは悪くない、的な。フランドル伯は追放され、市民たちはエドワード3世に忠誠を誓います。だってエドワード3世は「フランス王」なのですから!
 こうしてエドワード3世はフランス大陸への足掛かりを手に入れます。しかし、大陸にあるもう一つの領土・アキテーヌ(ギュイエンヌとほぼ同じ意味)にも兵を派遣したうえで(手薄にしてると取られちゃうからね)、ドーバー海峡を渡ってフランドルから大量に兵を送り込むという離れ業はイングランドの財政をどんどん悪化させました。フランドルに端を発したイザコザは、海戦ではイングランドが勝ち(スロイスの海戦)、陸ではフランスが勝ちと一進一退の攻防で、どちらの国も疲弊したため、期限を決めての休戦協定が交わされます。そんな折に、以前スコットランドからフランスに亡命した先王の子――デヴィッド2世がスコットランドに帰ってきたのだから大変。休んでいる暇もなくなったエドワード3世は一気にピンチになります。

⑥ブルターニュ継承戦争
 そんな折、ブルターニュ領(フランスの西に出っ張っているところ)で、次の領主を誰にするかという問題が起こりました。候補者の一人は前王の弟、もう一人は前王の姪――旦那がフィリップ6世の甥。ブルターニュ地方は別に、男系優先というわけではないんですね。ともあれ、姪の方はフランス王の公認ですから、弟としては気が気でない。そのため、あちらが王の力を借りるなら、こちらも王の力を借りよう!とエドワード3世に助けを求めます。エドワード3世を国王と認める代わりに、おれにブルターニュを治めさせてください的な話ですな。弟と姪(の旦那及びフランス王国)の戦争は、完全に後者有利でしたが、弟の嫁さんが異様にケンカが上手く、戦いは長期戦となります。そしてなんと、その戦いのさ中、みんなのアイドルダルトワ君が戦死してしまいました。彼は母方の実家がブルターニュ公家だった縁と、イングランドを助けるためにブルターニュ継承戦争に参加していたのでした。
エドくん「ダルトワくん!」
ダルトワ「マジしくったわ……フランス王家エッグイわ……」
エドくん「しゃべんねえ方が良いって!腹からなんかニョロニョロ出てっべ!」
ダルトワ「ちょうなんですよ……ってな。……エドくん、掴めよ、栄冠……」
エドくん「ダルトワくーーーん!!」
ダルトワは、なんだかんだで良い奴だったのかもしれません。前の国王の妻を毒殺した容疑のかかった自分(とんでもねえな)を受け入れてくれたエドワードのために最後まで戦いました。百年戦争の原因だけど。公文書偽造とかもしたけど。テストには絶対出ないけど。
 休戦協定が明け、エドワード3世は持ちこたえていたブルターニュに上陸。すぐさま、今度は「ブルターニュ継承戦争の」休戦協定が結ばれましたが、イングランドはしれっとブルターニュに駐屯地を作ることに成功しました。
 フランドルにせよ、ブルターニュにせよ、イングランドが大陸侵略の足掛かりを得たきっかけは、どちらもフランス国内の混乱でした。イングランドに比べるとフランスはどうやら「各地方には各地方のルールがあって、フランス国王でも容易に口出しできない」土壌がひろがっているようです。ブルターニュなんか、元々プランタジネット朝の領地ですしね。

⑦クレシーの戦い
 大陸にいくつもの駐屯地を得たエドワード3世は、とうとうノルマンディ(フランスの北西に出っ張っているところ)にも上陸。北東のフランドル地方に向かって略奪・放火・破壊をしながら進軍していきました。これにはノルマンディ‐フランドル間の支配を確実にすることと、フランス王家を挑発し、戦いに引きずり出すという狙いがありました。この狙いは見事に決まり、両軍はクレシーという小都市の郊外で激突することとなります。これが歴史に名高い「クレシーの戦い」です。
 イングランド軍の布陣は小高い山に騎兵隊を三部隊、その外側に弓兵隊を二部隊配置しました。騎兵六千、弓兵六千の総勢一万二千。対してフランス軍は前方にジェノヴァの傭兵弩(いしゆみ/クロスボウのことです)隊六千、その後ろに重装騎兵隊が三万以上と、総勢四万人の大人数で挑みました。
 騎兵隊といっても、イングランド軍の騎兵隊のほとんどは馬から降りてフランス軍を待ち構えていました。なぜなら「バノックバーンの戦い」において、騎馬が先走りすぎてロングボウの射程外に出てしまえば連携が取れなくなる――それなら、馬から降りて敵を押しとどめたところを弓兵に攻撃してもらえば良いということを学んでいたからです。フランス語においてシュヴァリエ(騎士)とは、「シュヴァル(馬)に乗る者」という意味で、馬から降りるというのは騎士にとってそれなりに屈辱なこと。そんな命令が通ってしまうあたり、イングランドが見事に騎士階級を支配していたことがわかりますね。
 クレシーの戦いは、フランス軍のジェノヴァ傭兵弩隊の攻撃からはじまりました。が、低地から高地へと撃つクロスボウは威力も射程も減じ、高台からのロングボウにさんざんにやられてしまいます。そもそもロングボウの方が射程が長いですしね。
 敗走するジェノヴァ傭兵弩隊を弾き飛ばし踏みつぶし、後ろに控えていたフランス重装騎兵隊がイングランド軍へと迫ります。しかしジェノヴァ傭兵弩隊の死体で足場が悪いわ、上り坂だわ、前から矢が雨のように降ってくるわ、その矢で馬が驚いて暴れまわるわで、さんざんに混乱をきたしたところ、イングランド軍の騎兵隊がドーンと追い打ちをかけました。これですよ。教科書に載せたい騎兵の使い方です(もう載ってる)。騎兵は馬という不確定要素を抱え込むため、防御力が極端に低いのです。そのため、奇襲やかく乱、追撃は大得意なのですが、正面切っての戦いこそ苦手なのです。実際、この戦いでは自分の馬に踏みつぶされて死んだ人、振り落とされて動けなくなったところに矢を受けて死んだ人がたくさん出ました。
 この戦いに勝利したことで勢いづいたイングランド軍は、フランドル地方の港町、カレーまでたどり着いて占領。アキテーヌ地方の手つかずの数都市も占領し、戦況は一気にイングランド王家に傾きます。

⑧ポワティエの戦い
 イングランド有利のまま、ローマ教皇の仲裁でこの戦争は一時(といっても結果として八年)休戦となります。アジアから黒死病(ペスト)が流入し、ヨーロッパの人口が激減(一説によると、人口が三分の二になったとか)したからです。その際の和平交渉でエドワード3世が要求したのは、アキテーヌ領やアンジュー、ポワトゥーなどの割譲でした。フランス王位とノルマンディは遠慮しているあたり、エドくんも大人になったなあとダルトワくんも草葉の陰で思っていることでしょう。
 が、フィリップ6世の後を継いだジャン2世はこれを突っぱねます。まあ、認めたらフランスの西半分をほとんどイングランドにとられちゃうようなもんですしね。それを受けてイングランド軍は再びお得意の放火・略奪をしながらのだらだら侵攻をはじめ、フランス軍がそれを迎えうつという形が定まりました。ポワティエの戦いです。
 この戦いのイングランド側の総大将はエドワード黒太子。エドワード3世の息子であり、先のクレシーの戦いでも弱冠16歳で騎兵大隊を率いていた若き名将です。
 黒太子はボルドーから出発して、ブルターニュから出陣したランカスター公(黒太子の弟の舅/分かりにくい)と合流してフランス軍を叩こうとしましたが、ランカスター公がフランスに押しとどめられてかなわない。一時撤退しようとした黒太子ですが、フランス軍に追いつかれてしまいます。
 クレシーの時と違い、ポワティエで戦うことになったのは偶然といえますが、それでも黒太子、正面には生垣、背後が森、左手には小川と湿地帯、と騎馬突撃を防ぎやすい陣を作ったのは流石ですね。唯一、見晴らしのいい右手の街道には、荷車をバリケードとして置いたというのもセンスあります。
 クレシーの戦いで学んだフランス軍は騎兵の一部を馬から降ろしましたが、結局とる作戦は突撃だったのであんまり意味はありませんでした。それどころか、戦闘開始と同時に突っ込んでいった重装騎兵が弓矢を喰らって(彼らの名誉のために書いておくと、一応重装騎兵は正面からなら弓矢を弾けます。側面からの攻撃にはからっきしですが)パニックになってフランス軍の陣地に突っ込んでいくというお茶目もあってイングランド優位に戦いは進みます。ですが、イングランド軍はランカスター公との合流を前提にした兵数で、弓兵も少なかったため、時間の経過ごとに黒太子の軍は押し込まれていきます。と、良い感じにフランス軍が前がかりになったところで、黒太子は森の中に隠しておいたガスコーニュ騎兵を迂回させフランス軍の側面から突撃させました。持っててよかったガスコーニュ(ガスコーニュは一応南アキテーヌ公領に入り、イングランド王家とかかわりが深かったのです)。フランス軍はこれで潰走状態になり、なぜかそこにいたフランス王ジャン2世を捕虜にすることができました。ただここで問題が起こります。当時の戦争では、捕虜の身柄は身代金と交換するもの。捕虜の身分が高ければ高いほどもらえる身代金は高くなるため、イングランド兵同士で誰がジャンを捕まえるかでケンカが起こってしまいました。目の前の見苦しい争いに心を痛めたジャン2世は言いました。
ジャン「ちょ待てよ」
兵士A「ジャンさん……」
ジャン「おめーら仲間割れとかマジ幸ねえわ。
    この勢いでお互い潰しあったらフランスから人いなくなっぞ」

兵士B「でもよ!オレ、領地没収されて、ジャンさんの身代金がねえと……!」
兵士A「オレだって家で妻と娘が腹空かせて待ってんスよ!」
ジャン「オメーら全員のポッケをいっぱいにするくらいワケねー金持ちだから、俺」
 このセリフからも、なんとなく当時の国王の「国家観」がうかがえます。国王への身代金、それは「国家賠償」であり、それの出どころはジャン2世のポッケからではなく、国庫および、国民のポッケです(なので本来ならもう少し恥じ入るべきなのですが……)。そして彼の身代金の捻出のために奔走するはめになるのが、彼の息子であるシャルル5世です。読書好きで虚弱体質だった彼が「賢明王」と呼ばれるまでに成長できたのは、ひとえに、この莫大な額の身代金をかき集めるうえで様々な試練に遭い、それを乗り越えてきたからです。そう考えると、能天気なジャン2世も許せますかね……?

⑨民衆の反乱
 捕虜は身代金を払われるまで、捕まえた騎士の領地で厚遇されます。肉とかワインとかめっちゃ食えます。そのせいか、捕虜としての価値がある貴族様からすれば戦争は流れ矢とかでちょっと死ぬ可能性のあるスポーツ気分でした。ですが普通の兵士は別です。フツーに殺されます。苦しむのはいつだって民衆です。
 戦争の終結は「傭兵隊」の失業を意味します。ポワティエの戦いののち、イングランド軍、フランス軍の傭兵が大量に職を失い、金目当てに各地の村々を襲う盗賊となりました。被害を受けた農民たちはどう思ったか。傭兵たちは憎い、だが、我々を守らない領主こそ憎い!と、怒りは膨れ上がり、大規模な農民反乱となります。これを「ジャクリーの乱」といいます。フランス北東部からはじまった反乱は、だんだんとパリを目指して進んでいきます。
 パリでは、三部会―聖職者・貴族・平民からなる議会―が開かれていました。基本、議会といっても、国王のお願いはほぼ全肯定で、そのくせ議会を通ったというハクがつく、国王からすれば便利な機関でした。ですが、だんだんと平民が力をつけ、文句をいうようになってきたところに、ジャン2世の身代金を捻出するために臨時的に税金をかけていいかという議題を持ち込んでしまったから大変です。ポワティエの戦いに大敗し、身内も死にに死んだ貴族はだんまりで、平民議員が議会の空気を支配していました。都市民は農民と違い、直接的に傭兵の被害は受けていませんが、難民化した農民の都市部への流入と、盗賊行為による流通のマヒ、税金を払っても負けてくる軍には不満がたまっていました。パリ市長のエティエンヌ・マルセルはこの機に「大勅令」を提出しました。これは、税金や軍備、条約締結はすべて議会を通してやるべきだよという案で、こういった政治形態を「議会制民主主義」といいます。シャルル5世としてはもちろんこの案は呑めませんから、マルセルとシャルル5世は対立することとなります。色々あって側近をマルセル派に撲殺されたシャルル5世はパリを脱出。パリ以外の都市で三部会を開催したところ「マルセルくんたちおかしいわ。パリの三部会で決まったことは間違いだわ」という流れになりました。パリが熱狂していただけで、ほかの都市はそれなりにフランス王家に忠実だったんですね。さて、そんな折、ジャクリーの乱の首謀者、ギョーム・カルルは、フランス王家を打倒するためにマルセルと協力しようとパリに近づいていました。が、マルセルたちはそれを拒否。パリ以外の三部会のせいで逆賊扱いされかけてるのに、農民反乱なんか受け入れたらそれこそ逆賊と思われてしまいますからね。ですが、民衆の味方という感じは薄れてしまい、求心力を失います。哀れマルセルは暴動のさ中、暗殺されてしまいました。

⑩戦後処理
 ポワティエの戦いが起こったのは、エドワード3世の要求が通らなかったためです。ですから戦争に勝った後は、その要求を改めて呑ませたい。呑まなければお前の父ちゃん(ジャン2世)が死んじゃうよという脅しをちらつかせて。エドワード3世の要求は「全アキテーヌ、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌ、そしてノルマンディの割譲」でした。「譲ってくれたらフランスの王位は諦めるよ」だってさ。ただ、これを認めると、フランスの約三分の二がイングランド王の手に渡ることになります。シャルル5世としては絶対にNOです。ですが、長い捕虜生活に飽きたのか、ジャン2世が勝手にその条件を呑んでしまいます。シャルル5世はすぐさま三部会を開催。勝手に結ばれた条約を議会の総意で否定します。国王の決定でも「国」を害するなら議会で突っぱねられる。これが案外画期的で(基本クーデタしかないからね)フランスは中世的な国から近代的な「国」へと歩み始めたといえましょう。
 さて、それをうけてエドワード3世は占領下のカレーを出発して、お得意の略奪・放火・破壊を繰り返しながら南下しましたが、シャルル5世はそれをガン無視。すると季節が巡って真冬となり、イングランド軍は吹雪の中、野営をするはめになります。ガチ寒瀕死なうです。春が来て、疲弊しきったイングランド軍に、シャルル5世は教皇の仲介で和平を申し込みます。「アキテーヌ領の割譲、カレー周辺のいわゆるフランス北岸の領地の割譲」を許すかわりに「フランス王位を諦める」「国王の身代金は分割でいいけど大量にね」という内容のブレティニ・カレー条約が結ばれます。ほとんど内容が変わっていないように思えますが、ノルマンディからその南側の地域が外されており、一応値切ることに成功しています。イングランドに渡るのはフランスの三分の一で済みました。誤差みたいに思えますが、これがシャルル5世の小さいながらも大きな一歩なのでした。

 ジャン2世の身代金は、フランス国家予算にして二年分。金塊にして五トン分にも及び、分割にしても払いきれそうもない額で、フランスはジャン2世の代わりに何人もの人質を追加で出さなくてはいけませんでした。そんな折、事件が起こります。人質の一人、アンジュー公ルイ(シャルル5世の弟)が移動中に逃げ出してしまいます。するとどういうことでしょうか、身内の恥は自分の恥と思ったのか、代わりの人質が逃げたなら元々の人質をと思ったのか、なんとルイの代わりにジャン2世が人質として名乗り出てロンドンに行ってしまいました。いや、あなた国王ジャン……。この人、国王でさえなければ――親戚の家の隣に住んでるおじさんくらいの距離感だと――いい人なんだろうなあ。ジャン2世は人質として英国の地で死にましたが、英国の人たちからは好かれていたようで、分かるような。
 さて、重要なのはジャン2世の話ではありません。フランス王家では代々、国王が捕虜にとられた時や長女が結婚するとき、十字軍に参加するときなどに民への課税が許されていました。(逆にいうと、それまでは基本、課税は許されていなかったわけで、フランス王家というのは、ほかの諸侯と規模以外ほとんど変わらない「所持している領地での年貢」だけが財源だったのですね)今回は一番最初の「国王が捕虜にとられたとき」に当たります。
 ですが、莫大な身代金は、一回の課税では賄いきれません。そのため二度、三度、毎年のように税金が民に課せられます。そのうち身代金を払い終えても、いつものアレだから、毎年恒例のアレだから、と課税し続け、なし崩し的に税金が恒常的なものとなりました。これがフランスの税金のはじまりです。怖いですね……なし崩しって。
 こうしてシャルル5世は「タイユ(人頭税=直接税)」「エード(消費税=間接税)」「ガベル(塩税=間接税)」という、フランスの絶対王政を支えた三つの税制度を一代で軌道に乗せてしまいます。シャルル5世が「税金の父」と呼ばれる所以ですね。
(ちなみに人頭税とは、国民一人につき一定額を治めさせる税金で、累進課税の調査がない分原始的で、やる方としては楽なようです)
 実際、今まではフランス国内といえど、年貢を徴収することができなかった教会の領地や、他の領主の治める土地からでも、税という形で富を吸い上げることが出来るようになり、フランス王家の財政は劇的に改善しました。雨降ってなんとやらですね。

⑪カスティーリャ遠征
 税制を安定させたシャルル5世は、次は国内でめんどうなことになっているフランドル地方とブルターニュ地方の安定に力を注ぎました。イングランド寄りになっていたフランドル地方では、フランドル伯の娘とエドワード3世の息子が結婚しようとしていましたが、それを教会に手をまわして阻止。自分の弟と結婚させます。争いが続いていたブルターニュでは、あえて適当なところでイングランドが支援する側(モンフォール伯)にブルターニュをあげて、その代わりに臣下の礼を結び「領地を保証するけど、逆らったら取り上げるからね」と脅しをかけます。イングランドの支援を受けてついた王座といえども、こう脅されたらまあ従うしかない。……と、二秒でフランドル地方とブルターニュ地方は安定しました。
 国内の次は国外です。フランスより南西のイベリア半島に「カスティーリャ王国」がありました。カスティーリャはイスラム勢力との戦いが長かったせいか軍隊が強力で、フランスとしてはぜひとも同盟を結びたかった。そのころ、カスティーリャでは「残酷王ペドロ1世を追い落として、庶子(婚外子・王様がどこぞの女性に産ませた子だよ)であるエンリケを擁立しようという流れが起こっていました。ちなみに残酷王といっても、虐殺やら圧政やらをしたわけではなく、敵対する貴族勢力を封じ込めようとして貴族から嫌われていただけのようですが。(なので後世では民衆から「正義王」とも呼ばれています。貴族を弾圧するタイプの王様は基本的に政治に関心があるので、往々にして民―商人には優しかったり、人気があったりするものです)しかしエンリケはペドロ1世に敗北。フランスに亡命します。渡りに船とシャルル5世はエンリケこそカスティーリャ王にふさわしいとカスティーリャへの遠征を開始します。
 この遠征は、エンリケを王にしてカスティーリャに恩を売ることだけが目的ではありませんでした。フランスで跋扈する傭兵部隊をまとめてカスティーリャに送り込んで、フランスの治安を回復することもシャルル5世は狙っていました。改めて書くととんでもねえなコイツ!スペインの人たちからすりゃいい迷惑です。
 ですが、いくら王様の命令といっても百戦錬磨の傭兵たちが外国に行けという命令を素直に聞くでしょうか……?
シャルル「というわけで、皆さんにスペイン(まだねえ)旅行をプレゼントします!」
傭兵ども「「ザッケンナコラー!ナンオラー!スッゾコラー!」」
シャルル「ちなみにツアーの添乗員は、かの有名なベルトラン・デュ・ゲクランさんです!」
傭兵A 「え、マジ……?」
傭兵B 「ウチ、ブル戦(ブルターニュ継承戦争)のときから推しなんだケド…」
ゲクラン「お、おいら、ベルトラン・デュ・ゲクランなんだな」
傭兵A 「マジ尊いわ……」
傭兵B 「ゲクランさん!何か、私たちにお言葉をいただけないでしょうか!」
ゲクラン「さ、さっき、ここに来る途中に、犬のうんこ、フンじゃったんだな……」
傭兵C 「ふけえ……」
傭兵A 「ゲクランさんは言っている『カスティーリャを解放せよ』と……」
傭兵B 「なるほど、うんこがカスティーリャ王国の王冠を示しているわけか……」
 シャルル5世が遠征隊の隊長に選んだのはベルトラン・デュ・ゲクランという傭兵隊長です。彼は一介のブルターニュ貴族でしたが、ブルターニュ継承戦争でフランス側に参戦し目覚ましい活躍をあげ、シャルル5世に取り立てられます。傭兵たちは稼げる大将のもとに集いますから、そういった点ではシャルル5世の狙いは―ベルトランという人選はドンピシャでした。あらくれどもは大挙してカスティーリャに赴き、たった三か月でペドロ1世をやっつけて、エンリケをカスティーリャ王エンリケ2世として戴冠させました。(彼はペドロ1世をやっつけるのに協力してくれた貴族や聖職者にお礼として領地を大盤振る舞いしたので「恩寵王」と呼ばれました。これ、確実に「王位を簒奪した王様だから、兄貴を悪くいって弟を聖人化する」パティーンですよな)
 さて、エンリケ2世に敗れたペドロ1世が頼ったのは、フランスのアキテーヌ領はボルドーに居を構えていたエドワード黒太子でした。しかし、ペドロ1世を助けることが、黒太子、ひいてはイングランドの凋落につながっていくことを、このときは誰も予想していませんでした……。

 黒太子とペドロ1世の率いる軍は、さらっとカスティーリャに凱旋し、エンリケを打ち倒し、ベルトラン・デュ・ゲクランも捕虜にしてしまいます。ですが、おめでたいのはここまでで、黒太子はスペインで「赤痢」という未だワクチンの作られていない難病をお土産に持たされてしまいます。また、カスティーリャに攻め込む際の多額の戦費を、国王に復帰したペドロ1世がまったく払う気がない(約束したのにね、残酷!)。父王エドワード3世の支援もなく、仕方なくアキテーヌ領内で「竈(かまど)税」を課すことにしました。竈の数に応じて課税を多くするというのは、それなりに公平で、議会も通しているし、フランスのなし崩し税金とちがってきっちり課税期間も決めている。それなのに民衆やアキテーヌ貴族からはめっぽう評判が悪かった。
 民衆としてはカスティーリャの継承戦争など「自分たちと関わりのないどうでもいい戦争」だったのです。弟に王座を追われたペドロ1世も、王を助ける黒太子の義も、どうでもいい。どうでもいい戦争のしりぬぐいのために、どうして金を出さなくてはいけないのか!と。
 翻って捕虜になったベルトラン・デュ・ゲクランがエドワード黒太子に興味深いことを言っています。
「オイラの身代金を払いたくないとか、オイラを牢屋から出したくないとか、そんな気持ちで働いてる糸紡ぎは、フランスには一人もいないということなんだな」
糸紡ぎとは、民衆の一般的な職の例えで、フランス国民は全員、ベルトランを牢から出すための課税を嫌がらないということを意味します。実際問題、ベルトランがカスティーリャへ出兵したら治安が良くなった。どうしてか、なんて民衆がわかっていたかは知りません。ですがその事実だけを汲めば、どこかの国での勝ち負けなどどうでもよく、ただ、あのベルトランさんがピンチなんだ!少しくらいお金出そうぜ!と思うのは自然なことです。
 戦争に勝ったはずの黒太子は、こうして民衆の反感を買い、さらにアキテーヌ領内で独立を保証していたガスコーニュ地方の貴族にもフランス国王のマネをして税金を課していたから大変です。不輸(独立領主に税金を課してはいけない)の権利を害された貴族たちは、エドワード黒太子よりエライ人に文句を言いに行きます。エドワード3世はもちろん聞いてくれませんから、泣きつく相手はシャルル5世。ここからはいつものアレです。エドワード黒太子を王宮に呼びつけ、無視されたら不忠者と領地没収を宣言するパティーンです。ただ、ブレティニ・カレー条約で、アキテーヌ領はイングランドに割譲されているはずですから、エドワード3世はこれに反発。お前がルール違反をするならこちらもルールなど守るものかとフランス王を自称し、全面戦争へと移行していきます。

⑫百年戦争前半の終了
 この期間のイングランドとフランスの争いには「クレシー」や「ポワティエ」のような有名な戦いはありません。基本、フランスが勝ち続けたからです。
 ベルトラン・デュ・ゲクランは、その名声に反して、戦法は奇襲・夜襲・包囲と、いわゆる「負けない戦い」を好みました。その辺が現実主義のシャルル5世の気にいるところだったのかもしれません。大元帥(フランス王国軍の最高責任者)となったベルトランは少しずつ、少しずつ、エドワード黒太子の領地を削っていきました。
 勝ち続けられた理由はベルトランの戦術だけの力ではありません。シャルル5世は、カスティーリャ王国に遠征させた傭兵の一部―とりわけ優秀な奴らを常備軍として雇うことにしました。傭兵隊は戦争が終わると解散してしまうし、いちいち再結集をかけなきゃでスピード感に欠けるし、野盗になって国民に迷惑をかけるし……だったら戦争がない時でも常に雇っておこう!という考え。ただ、常備軍というのは金食い虫で、幾ら財政改革を経たフランスでも四千人ほどしか抱えておけなかったようです。ですが、少数ながらも精鋭の兵士を、名将による戦術で操れば、それは万の部隊にも勝ちうるということを、ベルトランは証明し続けました。

 1369年にはじまったアキテーヌ征伐は、76年にはボルドーやバイヨンヌなどをはじめとする一部港町以外すべてがフランスに占領されるという結果になりました。その間、エドワード3世も(老衰)、エドワード黒太子も(赤痢による衰弱で)死に、フランスの完全勝利が決定します。エドくん、ダルトワくんのところへ、行ったんだね……。
 シャルル5世はその勢いのまま、今度はブルターニュへ兵を進めます。フランス王に服従することを条件に領地を与えていた、イングランドの支援を受けたブルターニュ王が、当然のようにイングランドと同盟を結んでいたからです。その討伐に成功したシャルル5世は、そのままブルターニュ領をフランス国領に組み込もうとしました。しかし、ブルターニュの民と貴族は独立心が強く、それに反発。フランス王としては武力で屈服させてもいいのですが、ベルトランはブルターニュ出身で、あんまり乗り気でない。ベルトランとしては「べ、別にブルターニュはブルターニュなんだな」と思っていたでしょうし、シャルル5世は「フランス国内に独立国あるの、国としておかしいじゃん」と思っていたことでしょう。
 結局、国王だけが飛び抜けた力を持ち、各地方がそれに従う「中央集権国家」構想は、シャルル5世にしか理解できていなかったようでした。今までシャルル5世の手足となって働いていたベルトランの動きが鈍ったのは、地元だからというばかりではないように思えます。最後の最後で道を違えてしまった二人ですが、ベルトランの棺は、シャルル5世の棺の足元に今でも置かれています。

・・・
程なくシャルル5世も死に、英仏百年戦争(前半戦)は一段落します。
英仏、どちらの新しい王も対外戦争に前向きではなかったからです。
では、残りの50年分の百年戦争はなぜ起こってしまうのか……。
それは君の目で確かめてくれ!(完)

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